【映画】清須会議のその後はどうなった?歴史や原作から考察してみた!

こんにちは

清須会議は織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれ、織田家の跡継ぎを決めるため家臣たちが清須の地に集められたというお話です。

映画では実際に行われた「清須会議」をすごく忠実に絵がれています。

清須会議の後どうなったのでしょうか?

映画では語られなかったその後を調べてみました。

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【映画】清須会議のその後はどうなった?

映画「清須会議」のその後はどうなったのか?また武将達は、どんな運命をたどったのかを調べてみました。

清須会議のその後

城を去る勝家の背をみながら秀吉は「一年以内に勝家を滅ぼし、織田家を乗っ取ってやる!」と呟きました。

ここまでが映画でのお話です。

その後、1582年末に秀吉と勝家が戦う「賤ヶ岳の戦い」が始まります。

翌年に秀吉の勝利となり、勝家は妻のお市の方と自害に追い込まれてしまいます。

さらに、戦国時代は信長の次男である織田信雄と徳川家康連合軍が、羽柴秀吉軍と争う「小牧・長久手の戦い」へと続いていきます。

ますます勢力を増した秀吉は丹羽長秀、池田恒興などを慕え、最終的には天下統一にまで至ります。

 

登場人物たちのその後

映画に出ていた沢山の登場人物たちのその後はどうなったのでしょうか?

柴田勝家(役所広司)

清洲会議では結果的に秀吉(大泉洋)に敗れたました。

しかし想い人のお市の方(鈴木京香)と結ばれることができました。

その後、滝川一益(阿南健治)、織田信孝(坂東巳之助)と手を組み秀吉に対抗しました。

しかし清須会議から1年後の1583年に賤ヶ岳の戦いで破れてしまい、お市の方とともに自害します。

羽柴秀吉(大泉洋)

秀吉は清須会議で勝家に勝利しました。

その後、羽柴から豊臣に改姓をし「豊臣秀吉」となりました。

勢力を増していった秀吉は日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たしました。

1598年(61歳)に病気によりこの世を去ります。

丹羽長秀(小日向文世)

長秀は勝家と共に戦ってきましたが、最終的には秀吉側につきまいた。

良い判断だったのかその後、賤ヶ岳の戦いでも秀吉側を擁護し大大名となりました。

1585年(49歳)に胃がんによりこの世を去ったといわれています。(諸説あります)

池田恒興(佐藤浩市)

映画ではどっちつかずを最後まで繰り返し、結局秀吉側につきました。

映画であった通り、秀吉との約束で大坂・尼崎・兵庫を領地にもらいます。

その後も秀吉側で奮闘しましたが、徳川家康・織田信雄と争った1584年の小牧・長久手の戦いで戦死しました。

織田信孝(坂東巳之助)

三法師が後継者となったことを快く思っていなかった信孝は、1583年に勝家・一益(阿南健治)と共に賤ヶ岳の戦いを起こします。

その戦いに敗れた勝家は自害、そして信孝も自害を余儀なくされます、享年26歳。

織田信雄(妻夫木聡)

信孝の兄である信雄。

1583年賤ヶ岳の戦いでは秀吉側につき、勝家側についていた弟の信孝を降伏させます。

信孝はそれがきっかけで自害を余儀なくされました。

そして三法師の後見人になるべく安土城に入りますが秀吉に拒否されます。

その後は徳川家康につく事になり、老後は京都で隠居生活を送ります。

三法師

幼くして織田家を継ぐことになった三法師ですが、のちに織田秀信となります。

関ヶ原の戦い等を経て、26歳という若さで死去しました。

健康を害していたという話ですが、自害したとの説もあります。

清須会議が行われた歴史

清須会議とは

天正10年(1582年)6月2日、家臣明智光秀の謀反による本能寺の変で、天下統一の半ばで、 織田信長公が討たれました。
清須会議とは

羽柴秀吉は、即座に”弔い合戦”の大義名分を掲げて、神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・ 高山右近らを率いて、明智光秀との『山崎の戦い』に臨み、主君の仇討ちを果たします。 わずか10日余りで、明智光秀を倒し近畿地方の秩序を取り戻した秀吉が信長の後継者として注目されました。 本能寺の変の時に京都から遠く離れた地点に居た柴田勝家・滝川一益ら先輩格の武将は遅れをとることになりました。
清須会議とは

信長の仇を討った羽柴秀吉の台頭を抑えようとする柴田勝家は、1582年6月27日、尾張の清洲城で織田家の重臣を集めて『清須会議(きよすかいぎ)』を開き、信長の正統な後継者を定めようとしました。
清須会議とは

清須会議が開かれた段階では、織田信長の血縁者として『織田信雄・神戸信孝・三法師(織田信忠の嫡子)』が残っており、この三人の中から家督相続者が選ばれることになっていました。 柴田勝家は信長三男の神戸信孝を、羽柴秀吉は信忠嫡子の三法師(織田秀信)を推しました。 清須には織田信雄(のぶかつ)・神戸信孝・滝川一益らも集まっていましたが、信長の後継者(織田家の家督相続者)を決める清須会議に出席していたのは、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興であり、この4人を清須会議四宿老といいます。
清須会議とは
丹羽長秀が秀吉の『長子相続の筋目論』を支持したことで三法師(織田秀信)が信長の正統な後継者に決まりました。 神戸信孝が主君になれば烏帽子親を務める柴田勝家の影響力は増していたと考えられますが、結局、秀吉の親しかった織田信忠の幼少の嫡子・三法師(さんぽうし)が家督を継ぐことになったのです。

清須会議では、後継者だけでなく信長死後の領地の再配分(新知行)も行われ、柴田勝家は越前と近江長浜(秀吉の拠点)を手に入れ、秀吉は播磨・山城・河内・丹波を所領にすることになり、丹羽長秀は若狭に加えて近江二郡を得て、 池田恒興は摂津の池田・有岡(伊丹)に加えて、大坂・尼崎・兵庫といった摂津・河内の大半を獲得しました。 神戸信孝(織田信孝)は美濃国全域を所領し、織田信雄は伊勢に尾張を加えました。三法師の守役を務める 重臣の堀秀政(ほりひでまさ)も、丹羽長秀の本領から20万石を貰いうけ近江坂田郡も手に入れました。

『織田信長の後継者』の地位を争って羽柴秀吉と柴田勝家の対立は強まっていき、1582年末に秀吉と勝家が戦う『賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)』が始まります。翌年4月には秀吉の勝利となり、勝家は妻のお市の方と自害に追い込まれます。さらには戦国の世は、信長公次男、織田信雄と徳川家康連合軍が羽柴秀吉軍と争う「小牧・長久手の戦い」へと続いていきます。

引用:清洲城HP

こうみると人間関係の色々な駆け引きがあったのだと言うことがわかります。

結局のところ、戦国時代は豊臣秀吉の天下の様に見えますが、1番特をした人物は「織田信雄」ではないでしょうか?

信雄は映画の中では「馬鹿呼ばわり」され続けましたが、最終的には京都で隠居生活を送ります。

強者の武将をいつも見ていた信雄は、どちらにつくことが良いのかを見定める力があったのではないでしょうか?

どちらにせよ、信雄もすごい武将であった事には間違いありません。

【映画】清須会議の原作

映画、清須会議は三谷幸喜の生誕50周年記念「三谷幸喜大感謝祭」に書き下ろされた小説です。

いろんな策略が,人間のバカさ,かわいさと共に軽く渦巻いてるという印象の本で、映画とは違う面白さが詰まっている小説です。

映画と比較して読んでみるのも面白いと思います。

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まとめ

今回は

【映画】清須会議のその後について調べてみました。

日本初の会議と言われた清須会議をコミカルに描いた三谷幸喜監督ですが、他の作品と違い、クスッとくる笑いはとてもクセになります。

実際の人物はどうだったのか、とても気になるところですが、歴史にあまり詳しくない私でも、とても楽しく観れた映画でした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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